翻訳メモリの弊害

Trados を使う仕事をしていると、これまでに作業した内容の翻訳メモリをクライアントから支給されることが多いのですが、これが曲者です。

このメモリを基準に、すでに翻訳されたことがある、またはそれに近い内容のものは、翻訳者の手間が省けるという前提で翻訳料金も差っぴかれるわけですが、実際にはそんな簡単な話ではありません。



まず、作業する文章 (原文) が過去の翻訳された文章 (原文) と100%一致していても、その訳が間違っていることが多々あります。これは、過去に訳した翻訳者の実力がない、という場合もありますが、まったく違う部分の訳が入っている場合もあるからです。

過去に作業した内容がメモリに入っている場合、実際に Trados を使って作業しながら記録された内容であれば、原文と訳文がずれることはありません。しかし、すでに Trados を使わないで訳してしまったものを、後から Trados で使えるように処理 (WinAlign などを使用) すると、原文と訳文の対応がずれてしまうことがあります。

そうすると、ただのソフトウェアである Trados は実際に翻訳したり内容を検証する機能はないので、全然違う訳文が充てられていても100%一致と思い込んでしまうわけです。

そして、それを支給されて、「100%一致だから料金は少な目ね」と理不尽なことを言われるわけです。
実際には、0%一致 (No Match) であるにもかかわらずです

それから、90%とか80%とか、地味に部分一致しているものでも、「ですます調」と「である調」を入れ替えたり、指定訳語に変更があったりすれば、前後の文章との流れに合わせてほとんど全部書き換える必要があったりします。この場合も、過去の訳文は役に立たないわけです。



最近、こうしたケースが増えてきました。翻訳者の負担など、クライアントはまったく考えません。そしてクライアントと翻訳者を橋渡しする翻訳会社も、あくまで数字でしか判断しません。上のようなケースが多発していても、いちいち取り合ってはくれません (悪いと思って謝ってくれることはありますが)。結局、翻訳者にしわ寄せがきてしまいます。



では、翻訳者はどうすればいいのでしょうか?



それは、取引先との関係によります。

こうした事情をある程度理解し、納期を延ばしたり、クライアントに (無理とわかっていても) 掛け合ってくれたりする翻訳会社ならば、こちらもある程度は仕方ないなという気になります。内心はめちゃくちゃ頭にきてるわけですが、だからと言って「こんな仕事やってられるか」と投げ出すのはプロと言えませんし。引き受けたものは、最後までやり遂げるのがプロですよ。      (聞いてますか、政治のプロの皆さん?)

ここは翻訳会社に貸しを作っておくことが、後々有利になります。つまり、こういう無理に応えてあげたんだから、こちらの無理も聞いてくれ、と言えるわけです。

ただしこれは、あくまで「きちんとした仕事をする」ことが条件です。案外きちんとした仕事ができる翻訳者はいません。だからこそ、きっちり仕事をする翻訳者には仕事が後から後から来るわけです。自分のやるべき仕事もできないのに、文句を並べるのであれば、すぐに翻訳会社やクライアントからそっぽを向かれてしまいます。



または、翻訳者の苦労などこれっぽちも考えず、口先だけうまくおだてておけばいいさという翻訳会社であれば、受注した分は仕方ないにしろ、今後の取り引きは止めておくことです。一見どんなに美味しい (と思われる) 仕事の依頼があっても、絶対に引き受けないこと。みんながそうやっていけば、その会社は自分で自分の首を締め、消えていきます。



まあ、結局のところ、(少なくとも引き受けた分については) 割の合わない仕事をさせられてしまい、クライアントや翻訳会社のいいように使われていることになりますが、悲しいかな、それが業界の現実です。現在はまだ何とかそれでも回っていますが、これがどんどんひどくなれば、翻訳者はとてもやっていけません。それで一番困るのは、翻訳会社であり、無理を押し付けるクライアントなんです。どうせ「そんなの知るか、翻訳者なんて掃いて捨てるほどいるんだから」とタカをくくっていると思いますけどね。そういう所は、いつか必ず罰があたります。    (実際潰れたところ知ってますし)



Trados に代表される翻訳ツールが、今後劇的に改善されることは、少なくとも当分はないでしょう。使い勝手は少しずつ改良されてきていますが、使い方を間違えてしまえば元も子もありません。翻訳者としては、クライアントや翻訳会社の間で、翻訳メモリを正しく使えるようにする「(ソフトウェアでなく) 人的なシステム作り」に取り組んでもらいたいと思います。

ま、どうせやりっこないですけどね、そんな大変なこと。そしていつか、まともな翻訳者がそういう仕事をボイコットし、質の悪い翻訳しかできない翻訳会社が増えていくんでしょう (すでにそういう傾向になってますし)。それによって、クライアントも耐え難いような訳の書籍を出すことになり、読者から苦情を受けるようになります。   (そこでも翻訳者を悪者にするんでしょうが)

会社や仕事というのは、モノではなく人 (人材) が何よりも大切だということはどの業界でも同じなのに、どの業界でもないがしろにされてるんですね。まあ、この業界では、
翻訳者なんて人だとは思ってない
でしょうけど。



あーあ、今やっている仕事、嘘の100% Match がありすぎて、まさに今書いたような状況です (原文自体に間違いがあったりもするし)。しかも、一部の WORD ファイルで「スタイルの自動更新」*1なんて設定がこっそりされていて、一箇所フォントの書式を変えると文書全体が変更されてしまうなんてことになってたりします。翻訳者の作業を考えて、こういう設定は支給する前に外しておいてもらいたいもんですよ。



こうやって愚痴でも書かないとやってられませんね。翻訳者なんて、地味で大変な仕事なんです。好き (=物好き) でなくちゃ勤まりませんよ、ほんと。

*1:ちなみに「スタイルの自動更新」をオフにするには、[書式] -> [フォーマット] メニューで表示されたペインで、該当する書式か場所 (本文など) で右クリックし、[変更] を選んで、変更ウインドウの [自動的に更新] チェックボックスをオフにします。