日英か英日か

論文は、明瞭簡潔に論理的説明をする文書でなければならない。いたずらに難しい文章構造で読み手を悩ませるような論文は、例え素晴らしい内容が書かれていたとしても、読み手の注意を引かない。論文を書くということは、相手を説得するだけの技量が試されるものだと思う。

内容よりも表現で論文の「質」が左右されてしまうことには納得しない方もいると思う。しかし、これは論文だけの話ではない。例えば、これから否応なく身近な存在として意識せざるを得なくなる裁判においても、(刑事事件の場合なら) 弁護士や検察側による裁判員への「語りかける (=表現する)」物腰、言葉遣い、目線の置き方、抑揚、身振りなどにより、内容ではなく「感情」や「好感度」が判断を左右する大きな要因になるはずだ。となれば、物事の本質を見極め「させる」上で、内容そのものよりも
「表現方法」が質を左右できる
という論法に、ある程度納得がいくだろう。



二週間ほど前に日本からバンクーバーに戻り、翌日からほとんど休みなく仕事に追われる生活をしているが、それはレギュラーの仕事に加えて、日英翻訳の仕事を大量に引き受けてしまったからだ。大量とは言っても、日本語で数千語のものがいくつも発注されていて、それを順番にこなして行くというものだ。そして、そのほとんどが論文である。

米国の大学では論文の書き方について、いわゆる「Simple is best」という考え方を徹底的に叩き込まれた。無駄をなくし、要点だけを要領よく書いていく。特許の明細書や、大統領のスピーチなどを参考にするといいが、どれだけ相手 (読み手) を説得できるかがポイントとなる。

しかし日本人が書く日本語の論文を見ると、それができていない事も多々見受けられる。1つのセンテンスに、言いたいことを何でもかんでも詰め込んでしまい、文の始まりから終わりまでが5〜6行に達することも珍しくない。どこに何が掛かるのか、文法的な決まりごとも守られていない場合も多い。こういう文章を訳すのは大変だ。

もちろん、これは日本語の文法が関係していて、主語をぼかすことができる日本語の「うまみ」を上手に利用しているとも言える。ただし、これは読み手が日本人である場合に限ってうまくいく話だ。日本語のうまみを、そのまま別の言語で表現するのは至難の業である。

その一方で、こうした文章をうまく訳せた時には、大きな達成感が生まれる。単なる言葉の置き換えという作業ではなく、創造的な仕事ができたという悦びだ。これはある程度経験を積んだ翻訳者でないと分からないものだろう。

今回作業している論文には、そうした「訳しづらい」論文が含まれている。中には、日本語にない言葉を勝手に作り、どうどうと綴っているものさえある。言いたいことは分かるが、それをどう英語で表現したらいいのか、その細部に至る「臭わせたいこと」をどう伝えるべきか、そう考えながら行う翻訳はなかなかスリリングだ。これは英日翻訳とは何か違うものがある。



面白い話がある。英日翻訳者と日英翻訳者における男女比で多いのは、英日が女性、日英が男性だそうである。これは脳の仕組みの違いが大きな要因だとどこかで読んだように思うが、本当だろうか。

そこに書かれていたのは、男性は割と抽象的なものを受け入れやすく、女性は具体的なものほど受け入れやすいのだという話だ。何か逆のような気もするが、これはあくまで「読む」、つまり、ありのままを受け入れる場合のこと。女性の方が抽象的で男性の方が具体的になるのは、自分で「考える」ことや「書く」場合など、創造的な面においてではないだろうか。少し前にベストセラーになった「話を聞かない男、地図の読めない女」という本 *1の言う、「男女は同等ではあっても同質ではない」のようなことなのだと思う。

翻訳という領域では、英語と日本語で比べた場合、英語はより具体的に表現され、日本語はより抽象的に書かれている気がする。主語を明記しなければならない (例え暗示的であっても文法的には必ず分かる) のは英語、省略できるのは日本語、といった具合だ。文法的にこうなっているのだから、どちらが優れているかという問題ではない。とにかくそういうものなのだ。

そして、主語が曖昧な表現の日本語で書かれた文章の羅列を辛抱強く相手にできるのは男性の方が多く、理路整然と書かれた英語をテキパキとこなしていくのは女性の方が多い、ということかも知れない。女性蔑視をする訳ではないが、ヒステリックになりやすいのは女性の方が多いだろう。そして、意味がつかみにくい日本語の文章に「切れる」傾向が強いのはやはり女性であるから、相対的に男性の方が日本語の文章を相手にしやすい。こんなところだろうか。



それが事実かどうかはどうでもよく、ここで言いたいのは、日英翻訳と英日翻訳とでは、同じ翻訳でもいろいろな意味で大きな違いがある、ということだ。そして、翻訳を職業とするなら、どちらを選ぶべきか、ということ。もちろん、一人ひとり*2その答えは違うはずだが、それを考える上での基準になるようなものはないだろうかと思ったのである。

さて、その答えは見つかるだろうか?



普段は英日翻訳を主としてやっているが、時々つまらなく思えてくることもある。内容が IT 関連などの堅いものなので、その中でも興味のある分野でなければ単なる仕事としか思えないからだ。とにかく、淡々と仕事をこなしている。お金のためだ。

それに比べ、今大量に引き受けている日英の仕事は、日本の文化などに改めて触れる機会も多く、思いがけない勉強になる。日本の文化や歴史、人々の暮らしや様々な生き様など、海外にいるがゆえか、非常に興味深いことばかりだ。読みながら、訳しながら、ふむふむと頷いている自分を何度も見つける、
なかなか乙な仕事だ。
これは面白い。もしかしたら、日英の方が向いているのかも知れない。

それに、日英は英日に比べ、人手不足だ。仕事をもらえる可能性も高いということだ。それも魅力の1つと言える。そろそろ主軸をずらしてみるのもいいかも知れない。



ただ、中には英日と日英の両方を作業することに異論を唱える翻訳者がいることも事実だ。根本的に違うことをしているのだから、ちゃんぽんにすると磨きが掛かる可能性もあれば、逆に互いに足の引っ張り合いになる可能性もある。1つのことに打ち込む姿勢は、やはり尊敬すべきだろう。どちらかを先に始めて、それがある程度のレベルに達したら、次のことにも挑戦する。これがちょうどいいのかも知れない。そして、今はそんな時期にさしかかっているのかも知れない。

ついでながら、翻訳と通訳を同じように考えている人も多いと思うが、これも大きな間違いだ。通訳は、人の話を、事実関係などは無視して、そのまま別の言葉で伝える作業だ (多少語弊のある説明だが)。通訳者はあくまで機械のようなもので、感情も創造的表現も必要とされない (もっと語弊のある言い方で申し訳ないが)。ある知り合いの、とても優秀な同時通訳者の方は、「それがつまらない」と言って辞めてしまった。その気持ちもよく分かる。

一方、翻訳は、原文の内容の事実関係を調べたり、時には内容を補足する必要もある。本来翻訳では、ウィスキーの CM ではないが、「何も足さない、何も引かない」が基本だ。しかし、例えばカナダ国内で流行っていることを読者が知っているという前提で書かれた文章などは、そのままでは日本人に理解されない。そうした背景を説明する必要が出てくる。これは、話し手が直接聞き手を前にして語りかけている時に通訳を行う場合と違い、書き手と読み手の「時間的、空間的、文化的」ギャップを翻訳者が埋めてあげる必要があるからだ。そこまでして、はじめてプロの翻訳になる。ただの英文解釈なら、機械にでもやらせておけばいいし、失礼な言い方だが、通訳者も簡単にできるだろう。だが逆は難しい。両者の違いは、つまりそういうことだ。



今手掛けている日英翻訳の仕事は、現在手にしているものだけでも今月一杯はゆうにかかりそうなものだ。この後もまだしばらく同じような仕事の依頼が来るようであるし、当分の間は日英翻訳をメインにしていこうと思う。急な英日の仕事が入らない限りは。

そして、それが「楽しい」と思え続けられるのなら、英日と日英の割り合いをシフトさせていこうかと思う。これは、やってみないことには分からないだろうが、これからの楽しみが少し増えたような気がする。翻訳は、やはり奥が深いものだ。どうせなら、楽しみながら、学びながらできる仕事にしていきたいと思う。



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今回はちょっと堅い文章で書いてみました。論文ばっかり相手している影響かも知れません。ま、たまには硬派な文章もいいでしょう。 でも疲れますか?書く方も疲れますけど (笑)。
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*1:まだ読んでないがいつか読んでみたいと思いつつ、本屋に行くとすっかり忘れてしまい、まだ手にする機会がない。買ってきたとしても、読む時間がないと思う。
ところで、本といえば、最近になって小林多喜二の「蟹工船」が売れているのだとか。小学生の時から読みたいリストの上段に入っていながら未だに読んでいない。というか、本を持っていない。ということで、青空文庫からダウンロードして、テキスト表示ができる MP3プレーヤーに入れておきました。きっとそのうち読むでしょう。でも、テキストを手にした時点で読んだ気になってしまいそうな気もする。これが一番いけないことだな。

*2:どうでもいいことだが、昔は「一人ひとり」という書き方が、現在では「一人一人」という書き方が教育指導要綱に書かれているとか。この言葉ひとつ取っても、もっと他に教えるべきことがあるような気もするが。。。