甘い誘惑

日本にいる家族が、ときどき新聞に出ている翻訳者の募集記事を知らせてくれます。現在取り引きのある翻訳会社も結構な数になっているし (というか対応しきれてない)、新聞で募集する会社には応募が殺到して、優秀な翻訳者が「安い」単価で合格するということになるので (中にはちゃんとしたところもありますよ)、正直あまり期待はしてないんですけどね。それでも、新聞での募集がきっかけで取り引きしている会社もあるので、頭ごなしにダメと見なすべきではないでしょう。

まあ、それは市場原理ですからいいんですが、気をつけないといけないのは、内職商法的なことをしている会社。つまり、「仕事を紹介するから、必要な教材やツールを購入しなさい」というヤツです。そういう会社の目的は、教材やツールを売りつけること。実際の仕事の紹介なんて、難クセつけられてなかなかもらえません。

翻訳業界にもこの手の会社は存在しており、業界に長く関わっている人ならいくつかそういう募集記事を目にしたことがあると思います。気をつけないといけませんね。



で、今回募集があったと連絡してくれた会社は、「インターンとして働きながら (= 収入を得ながら) 実務経験が得られる」というもの。勘のいい人はどの会社かすぐ分かると思いますが、ある大手英語学校が100%出資している会社です。

えっと、先に断っておきますが、この会社が「やばい」というこを言っている訳ではありません。ただ、今回たまたまこういう会社の募集を目にしたので、気がついたことを書いているだけですから、判断は自己責任で願います。

さて、ここの募集要綱を見ると、仕事をする上で各自用意しなければならないものが3つ挙げられています。

  • インターネットへの接続
  • 電子メール環境
  • 翻訳支援ツール TraTool(ダウンロード版/パッケージ版/TraTool.netのいずれか)


このうち、最初の2つは当たり前の条件です。通常なら、電話やファックスなどが条件になっていることも多いですね。問題は最後のツールです。



このツール、最近は時々目にしますが、それほどメジャーと言えるツールではないような気がします。このツールを使った仕事が業界全般でどのくらいの割合あるのかと考えると、非常に汎用性の小さいツールに分類されるのではないでしょうか。ただし、使い勝手や性能などは、実際に使ったことがないのでよく分かりません。

いや、ツール自体が問題なのではなく、このツールを買わないと仕事をくれない、という点に問題があるのです。何せこのツール、通常価格は7〜8万円するんですから。  (さらにぶっちゃけて言うと、このツールの販売元は、この募集記事を出している会社と同じ系列です。)



もちろん、ほぼ業界標準といえる Trados と比べればまだ安いと言えますが、元を取るのにどれだけ仕事をしなければならないかという点において、少なくとも翻訳初心者が手を出すべきソフトではないと思います。そしてそれを必須としているところが、ちょっと疑問に思う訳です。



ただし、この会社が内職商法をしていると言っている訳じゃありません。ちゃんと翻訳の仕事を扱っている会社のようですしね。むしろ、元々社内でしていた仕事を外注する上で、インターンという「付加価値」をつけて、系列企業の製品の売り込みも兼ねさせる、と考えた方が実情に近いのかも知れません。これは、企業としては当たり前の戦略であり、内職商法とはまったく次元の違うものです。

それでも、「翻訳家を目指す方に」と言いながら、「用語集作成」とか「校正、突合せチェック」をさせること自体、ちょっと違うような気がします。これじゃ、翻訳の実績作りにはならないし、どちらかというと、コーディネータとかアシスタントがする仕事に入るんじゃないでしょうか。簡単に言えば、翻訳作業の流れ中で、雑事に近い部分に入ります。   (でも大事な作業ですけどね)



翻訳会社というのは、仕事の依頼を受けてから実際に支払いを受け取るまでの時間が長い (= キャッシュ・フローがとても悪い) ため、業績のよくない会社は本業以外で現金収入を稼ぐ必要があります。大抵の翻訳会社が、英語学校やら異業種の仕事を手掛けているのは、そのためです。   (翻訳会社にいたことがあるのでちょっと知ってます)

そうした副業的な部分でもきちんと事業を進めている会社は、もちろんたくさんあります (副業の方が大きくなってしまった老舗の某大手もあるくらいだし)。でも、そうじゃない会社があることも、残念ながら事実です。

翻訳者に憧れている人は、とにかく何でもいいから仕事をもらって実績を作らなくてはと思うものだし、それは無理もないことです。でも、世の中「甘い誘惑」が思いどおりのものであることは、まずありません。どこかに何か (騙すようなことではなくても) 裏があるんです。でないと、商売になりませんから。どの翻訳会社も、ボランティアではなく、商売をしているんですからね。



翻訳という仕事は、職人的な仕事の一種です。自分の腕と辞書、パソコンなどがあれば、どこでもいつでも仕事ができます。そして一番大切なのは、自分の腕。そこには、正確さ、速さ、専門知識、クライアントの要望を的確に理解して満足させる文章力、スケジュール管理能力、コミュニケーション力、交渉力、健康管理能力、タイピング・スキル、パソコン関連知識、体力、などが含まれます。とても楽して得られるものではありませんし、インターンで仕事しても、このうちいくつ体得できるでか疑問です。

ツールを使うことも、これからの翻訳者には必要になってくるとは思いますが、
最初からツールを使っていると、本当の翻訳能力はつきません。 (キッパリ)
ツールに合わせた訳しかできなくなり、ぎこちない文章に不自然さを感じなくなる可能性もあります。だから、初心者に高額なツールを必須条件として仕事を与えることには、かなり疑問を感じます。翻訳は基本的には、辞書とエディタだけで十分対応できるものです。



とは言え、人にはいろいろな事情があります。仕事もいろいろなものがあるんですから、自分にとって条件の合う仕事をすることは、生き残る上で必要でしょう。要は、騙されるような仕事には手を出さず、裏があってもそれを承知の上で、その良し悪しを理解してから慎重に選ぶ必要があるってことです。

翻訳業界は、「優秀な」翻訳者が慢性的に不足しています。優秀であれば、高いお金を払うから仕事をしてくれと頼まれます。無理な要求や横暴な態度には、毅然と振る舞うことが大事です。でも、自己中心的で、「俺の優秀さが分からないのか」などと考えるのももってのほか。仕事は持ちつ持たれつの関係で成り立つのですから、引くところは引かないといけません。

そういうことをきちんと学べるのは、インターンのような制度でも、翻訳学校でもなく、翻訳とは無関係な一般の会社での社会経験です。そこでビジネスを学び、専門知識をつけることで、自然と力が付いてくると思います。世の翻訳者と呼ばれる人の多くは、実は異業種からの転職組みなんですから。もちろん、翻訳学校を出て優れた翻訳者になった方もいますが、卒業生の割合からするとほんの数パーセントではないでしょうか。結構厳しい数字だと思いますよ。



ということで、翻訳業に憧れる初心者のみなさん、
地道に励むことが一番です。
急がば回れ。努力すれば、いつかは報われますから。


(うわー、語ってしまったよ)