速読の弊害について

このところ、はてな界隈では速読の記事に人気があるようです。いや、別にそれはいいんですけど、いい所ばかり強調されていて、弊害はまったくないような感じを受けるので、それでいいのかって思ったんです。

で、思い当たる節をちょっと書いてみようと思うのですが、これはあくまで個人的見解であって、速読の利点を否定するものではないし、科学的な根拠もありません。

また、ここで述べる弊害が事実だとしても、利点がなくなる訳ではないので、まずそのことをお断りしておきます。さらに、そんなの弊害じゃないという意見もあるかも知れませんが、それは見解の相違ということで、読み流して頂ければと思います。



さて、一言で速読といっても、実はいくつかの種類があるようです。あまり詳しくは知らないので説明はしませんが、実際に試したことのあるものは、ページの一部 (半分とか数行分とか) を写真のように頭に焼き付けて読む方法です。これだと、文庫本程度なら1ページにつき1〜2秒で読む (というか見て理解する) ことができるようになります (努力して鍛えればの話ですが)。傍から見ると、本当に、まるで写真集を見ているように、ただひたすらページをめくっている感じに見えるんです。まあ正直なところ、これができたら凄いなとは思いますけどね。

で、この方法に関してパッと思いつく弊害には、次の4点があります。

  1. 行間を読めない − 直接書き出されている内容しか頭に入らない
  2. 想像力がつかない − 心象風景などを思い浮かべる時間的な余裕がない
  3. 読書を楽しめない − 好きな本を読み返して味わう気持ちがなくなる
  4. 間違いに気づかない − 正しいか間違いかの判断をすることなく、そこにある情報を無条件に受け入れてしまう

つまり、文学的な表現が書かれており、行間に深い奥行きが感じらる文章であっても、表面的なことしか受け入れなくなってしまうのではないか、ということです。分かりやすく例えるなら、ある景色について、時間をかけずに写真で撮った2次元的な (そこに実際に写っている) 世界を見るのが速読で、現地に赴き、そこの空気、風の香り、刻々と移り変わる大地や空の表情、土のにおい、息づく生き物たちの生命力などを深く感じるのが、普通の読書ということです。

スピードと情報量が求められる現代では、速読の効用は少なく見積もっても人生を劇的に変える可能性すらあるでしょう。ビジネスの世界においては、特に成功と失敗を左右するほどに大きなものかも知れません。実際、速読で飛躍的に業績を上げた人など、数え切れないほどいることでしょう。

でも、それが豊かな人生につながるかどうかは、また別の問題です。繊細な文学だけでなく、例えば子供が一生懸命に書いたつたない文章を読んでも、速読になれた脳はそれをただの「情報」としてインプットするだけですが、じっくりと読むことで、その内容、手書きであればその筆跡、文字のゆがみや並び、そして文字にできなかった思いを「感じる」こともできるはずです。

ある意味、芸術的というか、美的感覚につながるものですが、心象風景を思い描くことで想像力を膨らませ、豊かな心を養うことが、速読の訓練で脳を情報のストレージに変えてしまうことにより、できなくなってしまうような気がするのです。

そして、読書そのものを楽しむという気持ちがなくなってしまう気もします。休みの日や移動中の手持ち無沙汰な時など、じっくりと本を読みたいこともあります。何度も何度も読み返した本だけど、もう一度読み直したいこともあるでしょう。昔とは違った心境や立場、年齢で読めば、また違う印象を受けるかも知れない。そういう楽しみが、速読では味わえないと思うのです。これはとてももったいないことです。

また、文章そのものに間違いがある場合、じっくり考えて読めば分かることでも、速読だとそのまま頭に入れてしまいます。そのため、速読の対象にする書物などは細心の注意を払って選別する必要がでてきますが、その選別作業において、速読に慣れた脳は力を発揮できなくなってしまうかも知れません。これでは、簡単に洗脳されてしまう可能性さえあります。いえいえ、これは決して大げさな話ではありません。

テレビのニュースをつけて、一方的に伝えられるその内容を日々疑問を持って観ている人はいったいどれだけいるでしょうか。テレビで伝えられていることは、現実の中のほんの一部を切り取ったものです。その全体像は、テレビを見ているだけでは分かりません。その判断能力も、判断基準も、視聴者はどうでもいいと思うようになっているのが実情です。そう、単に情報を無条件に受け入れてるだけなのです。

そこに、ある種の思想を植え込むようなニュースを流せば、人は簡単に信じ込みます。北朝鮮で一般市民が観ることのできるテレビ番組は、国が一方的に流すものばかりです。世界の実情について知らされず、考える余裕も与えられなければ、やはり洗脳されてしまうでしょう。

速読の場合、もちろん他からの情報も入ってくるので、気をつければ大丈夫かも知れませんが、速読が上達すればするほど、入ってくる情報量のほとんどが速読によるものになってしまい、その内容について正しいか間違いか、一面だけを拾っているのか包括的な意見なのか、判断できなくなってしまう危険性はかなり高くなるでしょう。

そう考えると、速読をすること、そのために脳を速読用に鍛えることには、少々慎重にならないといけない気がします。



人間の脳は驚くほど柔軟で、人が考えている以上の潜在能力を持っています。これをうまく使えば、速読の技術を生かしつつ、じっくり読み、考えるというバランスを失わずに生活するこも可能でしょう。しかし現時点では、速読の効用ばかりが謳われ、その後にすべきことを誰も指摘してません。ここが一番の問題点です。

この辺りのことは、おそらく脳科学者とか心理学者が担当する部分なので、素人はこれ以上言いませんが、単に速読を妄信することは、弊害もあるということにもっと注目すべきだと思います。

それでも、ビジネスの世界では、利益の方が大きいのでしょうね。結局のところどうするかは、自分自身の問題です。



ちなみに翻訳者の立場から言わせてもらうと、例えば北米の文化を前提または背景にした文章を日本人向けに訳す場合や、日本古来の伝統芸能を英文にする場合、ただその字面を違う言葉に変換するだけでは意味がないので、注釈を入れたり、分かりやすい表現に変えたりする工夫が必要になり、速読的な文章の理解は役に立ちません。いや、むしろ間違えを犯してしまう可能性さえあります。

そのため、文章を早く読む、入力を早くするという、物理的な作業の効率化は当然するとしても、速読のような情報の入力機構を変えてしまうことには踏み入れません。おそらく、翻訳者だけでなく、文学や芸術に関わる人は、無意識にこのことを理解しているのではないでしょうか。ある程度の必要な時間をかける、または確保することは、一見無駄や非効率な作業に見えて、実はもっとも大切な要素の1つなんです。美味しい料理は、瞬間的に熱を通してもできません。それと同じように、ゆっくりと手間ひまをかけることも、必要な時があるんです。

要は、自分が何に興味があり、何を優先的にしなければならないのか、何と関わらなければならないかで、速読技術を取得することの有益度が変わってくるのだと思います。スピード社会、情報化社会と言われて久しいですが、自分の立ち位置だけは見失わないようにしたいものです。