国歌斉唱や国旗掲揚時の起立についてちょっと思う

先日、塩谷文科相が、国歌斉唱時には起立が常識と発言したようですが、これに違和感を抱く人も少なくないでしょう。ある意味、礼節をわきまえるということでは敬意を表するために起立するのは常識と言えないこともないですが、何のために国歌斉唱をしているかが重要だと思います。

塩谷文科相は、どんな場合であっても、国歌斉唱や国旗掲揚時には起立すべきだという意味で発言したんでしょうか? 形だけでも起立すればいいという意味なんでしょうか?

何か違いませんか?



国歌斉唱や国旗掲揚については、昔から議論されてきた非常に敏感で繊細な問題なので、簡単に答えが出るわけではなく、どれが正しいと一括りで片付けられるものではありません。しかし、今は特に教育現場が混乱しており、それについて何らかの対応をしなければいけないとは思います。そうでなければ、子供達がどうしていいか分からなくなってしまう。

では、誰もがとは言わなくても、多くの人がある程度納得できる「説明」はどうしたらできるでしょうか。

あくまで個人的な意見としてですが、例えば、国歌や国旗に対してではなく、式典においての礼節という意味で起立するのだと考えてはどうでしょうか?改まった場で、式典や壇上に居る人に敬意を払うとか、何かの業績・功績に対して祝辞を送るとか、別れを惜しむためのけじめだとか。

その場合、必ずしも国歌や国旗でなくてもいいと思うのですが、決まりごととして、ある統一された「形式」が必要なこともあります。思想信条を押し付ける意味ではなく、何らかの具体的な「印」としてです。そこで、特別に取り上げられるような別のものがあるならそれを使えばいいし、それがなく、形式を重んじたいのであれば、国歌や国旗を持ち出しても (大きな反対がなければ) 構わないと思います。ただ、義務教育の学校を卒業できるのは、国のおかげでなはなく国民の権利であり、国は義務としてその責を負っているはずなのですから、卒業式などに国歌や国旗を持ち出す必要性は果たしてあるのかどうかも疑問です。仰げば尊しで、十分な気もします。



そもそも、起立をするということは、誰か、または何かに対して敬意を払うという意味なので、敬意を払えないような対象に対して、起立を無理強いすることはどうかと思います。国歌斉唱や国旗掲揚で起立するということは、天皇や国に対して敬意を払うと言い換えることができますから、本来の式典などへの敬意とは目的が違ってきてしまいます。

天皇や国家を崇拝する人から見れば、国歌 (つまり天皇) や国旗 (つまり国家) に敬意を払うのは当たり前のことでしょうが、様々な事情によりそうでない人もいるわけです。その、そうでない人の立場からすれば、例えば誰かが助けてくれたことに対して何でも「Thanks God!」といってしまう、相手にではなく神様にお礼を言う宗教信者の言動と同じで、違和感があるわけです。

そう考えると、国歌斉唱や国旗掲揚時に起立させるということは、少なくとも現状では、国歌や国旗そのものに対して敬意を示せと言っていることと同じなので、問題になるんです。だから、敬意を示す対象を別にきちんと示してあげればいいのではないでしょうか?

国に対する敬意、これは愛国心にも繋がるものですが、国を思うことと、盲目に信じることは同じではありません。真に国のためを思うのなら、政府や国政、官僚が腐敗していることに異議を唱えることもあるはずです。ただひたすらお上の言いなりになるのは、国を思う心がないも同じで、残念ながら政府が言う「愛国心を持つ」ということは、少なくとも現状ではこの意味に近いと思います。

そして、汚職を繰り返す大臣や議員、途中で職務を投げ出したり、医者を見下したり、義務教育で習うような漢字も読めない首相、援助交際をする教師、飲酒運転で捕まる警官など、国や教育に関わる人たちがこれでは、どうして「愛国心を持て」とか、国に敬意を払えと言えるでしょうか。まずは、そういう人たちが手本を見せてこそ、起立云々を言える立場になれるのではないでしょうか? そんなこともできない人達から国歌斉唱時は起立しなさいと言われて、子供達は納得すると思うのでしょうか? 誰かを、何かを敬う気持ちが生まれると思うのでしょうか?

繰り返しますが、国を尊敬するという気持ちと、国歌斉唱とは、現在では微妙な関係があります。日本の国歌は、国ではなく天皇を称える歌です。だから君が代を歌うこと自体に異議を唱える人もいるので、そういう問題を脇に置いておき、国歌斉唱時は起立しなさいというのは、子供であっても納得できないことだと思います。

だからこそ、そうした矛盾を抱えていることを包み隠さず子供に教えた上で、たとえ敵であっても礼節をわきまえた上で戦った武士道のような、そういう教えを説くべきじゃないでしょうか? 武士道が何でもいいというわけではないですが、相手が何であれ、認めるべきところは認め、承知できなことにははっきりとその意思を示す。そういう礼節を学ぶという意味では、いいのではないかと思います。



今の大臣クラスの政治家には、果たして見習うべき人格が見えるでしょうか? その人たちが動かしている国に対して、敬意を払えとか、起立しろとか、どうして言えるのでしょうか。しかも、それを自分達政治家が言わないと誰もしてくれないような時代にしたのは、誰の責任でしょうか?

学習指導要領がどうのこうのと言う前に、起立してもらえるだけの働きをして欲しいものです。そして、押し付けをせず、間違いや弱点を隠さずにきちんと見せるだけの本当の「強さ」を示していくことが、この問題を和らげるきっかけになるのではないでしょうか?