なんか違うぞ日本の教育

先日、朝日コムで『長期学習者は英語を省エネ脳で理解 文法中枢調べ判明』という記事が出てました。それによると、ある研究では、

  • 英語力を定着させるには、短期間での習得よりも、6年以上続けて英語に接する方が重要なことがわかった
  • (中高生の場合)、母国語である日本語を理解するのに使われる左脳前部の「文法中枢」と「文章理解の中枢」と呼ばれる部位が、英文を判断するときに日本文のときよりも、より盛んに活動することがわかった
  • 短期習得者は文法中枢の活動が盛んな人ほど成績がよく、長期習得者は逆に活動が低いほど成績がよかった

   (朝日新聞より引用)

ということで、要するに、英語は長期間の継続した勉強が必要で、習熟度に応じて脳の使い方も変わってくるということでしょう。

確かに、英語が出来なかった学生時代の時と、英語圏への移住者として、翻訳者として、英語に接している今とでは、英語を使う時の疲れ方や思考回路が違っている気がしますね。何より、日本語を使っていて急に英語になる (もしくはその逆) と一瞬混乱するので、言語によって違う脳の回路を使っているんだな (つまり英語と日本語を無意識に翻訳する作業はしてない) と感じますね。

まあ期間については、北米ではだいたい5〜6歳くらいの子供ならちゃんとコミュニケーションが取れようになるんですから、そのくらいの年月をかければいいだろうってことは頷けます。大人になれば、脳の柔軟性も下がってくるので、もっと時間をかけないといけないんでしょうけど。

もちろん、6年という期間は、人によって違ってくると思います。覚えの早い人もいれば、時間をかけてゆっくりマイペースでやっていく人もいるはずです。ま、だいたいの目安と考えればいいですよね。これ、大事ですよ。明確な線引きをしちゃだめです。

そしてもう一つ大事なことは、英語の勉強を自ら進んでやっているのか、いやいや学校でやらされているのかってことです。ただ単に時間をかければいいというものじゃないですからね。(学習者にとって) 意味のある勉強でなくては。

個人的な体験からいえば、中学から高校にかけて6年間勉強してもまったく身に付かなかった英語が、卒業後、自分で勉強したい、しなくちゃと思ってからは、あっという間に上達し、今ではそれで食っている訳ですから、勉強の取り組み方、そしてその意欲や姿勢が大事だなとつくづく思います。



ところが、今朝の朝日コムには、公立の小中学校が数値目標を掲げた「マニフェスト」をつくり、自治体もそれに拍車をかけるように、予算をちらつかせている記事が出ていました。

これ、生徒や現場の先生にとっては負担とプレッシャーが増えるだけで、学校の評判を気にする関係者や保護者のために掲げられたものじゃないでしょうか。

子供は一人一人、勉強のやり方も、理解するペースも、興味が出てくる時期も、その対象も違います。それを一緒くたにして、「何年生ではここまでを何%の生徒に理解させる!」という数値目標を打ち立てるのはどうでしょうか?

もちろん、これまでにも学習指導要領なんてものがあって、そこには習熟度の目安が掲げられていたわけですが、このマニフェストでは単なる努力目標ではなく、先生や学校の評価に繋がるように
「出来る生徒数」を数値化
していることで、ちょっと違うような気がしてなりません。



大器晩成した人の中には、学生時代、特に小中学校での成績がかんばしくなかった人も少なくありません。つまり、大器晩成型の子供達が、学校の都合で掲げられたマニフェストに貢献できないからといって「君は目標の60%に入ってない落ちこぼれだ」なんていうレッテルを貼られたとしたら、その子の将来性を否定することになってしまいます。60%でも80%でも、その残りの数字の部分は「出来ない子」=「落ちこぼれ」がいることを前提としているわけで、学校がそういう存在を明確に定義してしまい、その子達はある意味見捨てられてしまうってことにもなります。

つまりこうしたマニフェストは裏を返せば、「100%−80%=20%」の落ちこぼれはあって当然であり、80%を達成したら20%の子供たちを理解させることは置いておいて、出来る子たちだけを構ってあげればいいということでもあるわけで、まさに弱者切捨てです。そんなの、もう、教育とはいえないですよね。

学校 (特に公立校) には、勉強が出来る子と出来ない子がいていいんです。無理やり競争させるのではなく、何かに興味を持たせるような指導をしてあげることが学校のすべきことであって、決められた檻の中に子供達を追い込むことじゃありません。ゆとり教育に失敗したからといって、無理やり競争させたり、同じ方向にだけ追い立てることが正しいという理屈にはならないはずです。



恐らく、こうしたマニフェストなんかを考えた教育関係者は、学生時代の成績が良く、エリートとまでいかなくても、競争では負けることより勝つことの方が多かった人なんでしょうね。分からないことや、置いていかれることの不安、悔しさ、悲しさ、絶望、不満、憤りといった感情を持つことも、さしてなかったのでしょう。だからこうした考え方を平気で掲げてしまうんでしょうね。ちょっとぞっとします。



ちょっと聞いた話ですが、ガイアの夜明けという番組の中で、「失恋休暇」なる制度を導入している会社があるとか。どうやらこれは、失恋して気分が乗らない社員に対し、気分転換ができるようにと通常の有給休暇とは別にお休みをあげる制度らしいですが、これはおかしいでしょう!

また、別の大手企業では、これと似て非なる制度があり、うつ病で苦しむ社員のケアをするための施設や専門の部署を作り、職場環境や労働環境を改善したり、負担を減らしてあげようという社を上げての試みもあるようです。

後者の場合、学校では「保健室登校」のような形で登校拒否やいじめから子供を守ろうという取り組みがあり、その延長として捉えるることができます。つまり、押し付けられた制度の枠組みでは対応できない人を否定するのではなく、従来の枠を超えた新しい形で、接していこう、支援していこうとういうものです。

それに対して前者の場合は、頑張るべき時には頑張らなくてはならないという、最低限の辛抱強ささえ持たせようとしない、後ろ向きの対応です。確かに、結婚目前にして止むを得ない事情のため破談を迎え、精神的に参ってしまうようなケースもあると思いますが、アイドルに恋心を抱いていたら、そのアイドルが結婚してしまったので失恋したという人もいるわけです。そうした様々な事情をそれこそ一緒くたにしてしまうことは、学校がマニフェストを作って、その中で生徒を囲い込んでしまうこととある意味変わりません。これじゃ、その人の為にはなりません。単なる甘やかせです。何でもいいから決められた枠の中に入っていてくれればいいという、極めて投げやりな教育方針じゃないでしょうか?

こうした考えが会社組織の中で生まれてきてしまうこと自体、学校教育のゆがみが現われていると言えるように思えます。

いろんな状況や可能性があることを忘れて数値化してしまったり、逆に「ゆとり」という言葉を勘違いして際限なく甘やかせたり、必要な知識を学校で教えなかったり、そんな壊れた学校制度の顛末として、今の日本社会の問題があるように思います。

キレる子、どうせダメだからと頑張ろうとしない子、うまく行かないことをすぐ人のせいにする子。そういう子は昔もいましたが、今ほど溢れてはいなかったように思います。どうしてこういう子が増えてしまったのかは、もう言うまでもないですよね。そして、そういう子が先生になって子供を教育していく。熱意のある先生ほど保護者や関係者から疎まれ、他校との競争や保護者からの評判ばかり気にする人が学校を支配していく。これじゃ、この先の日本は、明るい未来を迎えることができないと思います。もう少し、学校関係者は、そして学校を指導する教育委員会やら文部科学省は、先のことを真剣に考えてもらえないでしょうかね? お願いしますよ。