グラウンド・ゼロ

人間、人にされた嫌なことや、人に親切にしてあげたことはよく覚えていて、自分がしたひどいことや、人に良くしてもらったことは忘れがちです。悪気があってそうする訳ではないのでしょうが、気をつけないとついそうなってしまいます。そしてそれは、他人に指摘されて初めて気付くことも少なくありません。つまり、時には誰かが指摘する勇気を持つことも大切です。



6年前の今日、言わずと知れたニューヨークでのテロ事件が発生し、多くの人が犠牲になりました。その日は家族が日本から着ていて、ちょうどアメリカに飛行機で渡るところだったのですが、それどころではなくなり、大変な思いをしました。1年前の今日のブログにそのことを書いたのですが、あれからまたカレンダーが一周したのかと思うと、不思議な感覚に襲われます。でもあの日のことは、まさに昨日のことのように鮮明に覚えています。きっと、遺族の方々は、もっと鮮明に、そしてもっと辛い思い出を、いつまでも覚えておられるのでしょう。犠牲者の方々に、ご冥福をお祈りします。



このテロ事件以来、グラウンド・ゼロという言葉は911の事故現場を示す意味でよく使われるようになりました。本来は原爆などが落とされた爆心地という意味で、それだけ大きな痛手を受けたアメリカ国民の心情を表しているのでしょう。人的、経済的損失はもとより、国の象徴的なワールド・トレード・センター・ビルに2機も飛行機が突っ込んだのですから、威信がビルとともに崩れ去ったのは言うまでもありません。

でも、グラウンド・ゼロという言葉を使うのなら、もっと広島や長崎の原爆のことを考えてもいいのではないでしょうか? 911の追悼行事は、世界に向けて繰り返し繰り返し、1日中テレビで流されます。アメリカ人の誰もが、この日だけは特別な感情に浸ります。

それは分かります。亡くなられた多くの人たち、その遺族や関係者の悲しみは想像を絶するものでしょう。テロ事件そのものがまだ記憶に新しいことでもあり、惨状を世界中の人がリアルタイムで見ていたことによる衝撃は、計り知れません。けれど、アメリカが落とした原爆で、その何百倍の人が亡くなったことや、今でも後遺症で亡くなる方がいることや、原爆を落としたことを正当化するような人たちがいることについて、アメリカ人の何人が、追悼記念日に黙祷したでしょうか?

テロは許されることではないですし、犠牲者の数の大きさで事件や事故の大きさを測ることは的を得ていません。でも、戦争中という特段の事情を鑑みても、明らかに民間人を狙った大量殺人を行い、未だに正式な謝罪をしないアメリカという国とその国民は、911を経験したことで、少しは原爆を落とした過ちについて考えるようになったでしょうか?たぶん、ないと思います。



911に関して、アメリカのことを悪く言うことはタブー視されています。それはそうでしょう。犠牲者であるアメリカを悪く言うことは間違ってます。でも、根本の原因を考えて、どうしてこうなったのか、自分達が同じような誤りをしたことはなかったかを考えてもらいたいと願うことは、批難されることじゃないと思います。どんな事にも、それには原因や要因があるものなのですから。

事故から6年が経ち、感情的に敵意を剥き出しにするだけでなく、「これから」どうするべきかを考える時期に入ったのではないでしょうか。グラウンド・ゼロという言葉を使う以上、唯一の被爆国の人間として、被爆者を知っている人間として、その言葉を生み出した国の人たちに少しでも耳を傾けてもらえたらと思います。