小学校での英語必須化に消極的な政府についてちょっと思う

伊吹文部科学相は、はっきり言ってどんな方なのか全然分かりません。なので、文部科学相云々ということではなく、ニュースになっている英語必須化に消極的なこと自体についての感想です。

結論としては、悪くないと思います。英語だろうが何語だろうが、要は文章の読解力やコミュニケーション力をつけることが大事なのであって、そのためにはまず国語をしっかりやるべきでしょう。英語は高学年になってから、文法からではなく、音楽やテレビ、ゲームなどを通して慣れさせ、拒否反応や難しいという概念を与えないようにすることが大切だと思います。子供は、興味があれば自分から進んで覚えようとするのですから。だから、必須でなく、もっと自由な環境で触れさせる方がいいでしょう。

昔、コント赤信号ラサール石井さんが何かの雑誌に書いていた (と思う) のですが、入学できる大学のレベルは、読んだ本の厚さの合計に比例する、というようなことを半分冗談まじりに論じていました。でも、これはかなり的を得た話だと思います。

漫画は別にして、挿絵もあまりない文学書や小説など、活字だけで頭の中にその景色が思い浮かべられるようになる (いわゆる「心象風景」が浮かぶレベル) まで、たくさんの本を読むべきだと思います。ジャンルは何でもいい。好きなものを読めばいいんです。すると、読解力がめきめきつきます。

一旦心象風景が思い浮かぶようになれば、あとは文章が日本語で書かれていようが、英語で書かれていようが、違いはありません。また、英語も好きなジャンルのものから入ればいいんです。だから、文法から入る中学の英語を最初にもってくるのではなく、「慣れる」ための「お手伝い」を教師や学校はすべきじゃないでしょうか。学校は、何も「教える」だけの場所ではなくて、子供達に興味を持たせて学んでもらう場、つまり「まなびや」な訳ですから。

これは何も英語に限ったことじゃありません。数学や物理、歴史や地理だって同じです。「不思議だなぁ」とか「面白い!」と子供が「自分で感じる」瞬間をお膳立てしてやれば、あとは子供が勝手に知りたいと思い、学ぼうとします。そういう教育が、日本にはないんじゃないかと思います。

最近子供の学力が落ちたのは、教えている内容が薄くなったということに一因があるのは否めませんが、それよりも「教え方」が問題じゃないでしょうか? もっと現場の教師に裁量権を持たせて、先生なりの工夫で教えてもらうことが大切です。そのためには、先生になるための大学での授業をまず工夫する必要がありますよね。日本の大学の教授は、果たして工夫する授業を行っているんでしょうか? 日本の大学についてはよく知らないのですが、どうもそうではないという評論が多いようです。それじゃ、ダメじゃないですか? 先生の卵の先生が、まず率先して教えることの楽しさを見せてあげなくては。

あと、宿題も考えた方がいいですね。宿題自体が悪いのではなくて、何をやらせるかってことです。自由研究はいいんですけど、結局間に合わせって感じでやっていることがほとんど。漢字の書き取りや計算問題などは、休みの間に忘れないようにってことだと思いますが、休みの最初に終わらせるか、終わり近くにまとめて泣きながらやることがほとんどな訳ですから、あまり意味がない。最後に必死になって宿題やるなんて、その後の人生で何の役にも立たないですよね。唯一、「もっと早くやっておくべきだった」という社会の掟、厳しさを学ぶことくらいでしょうか。。。

そういえば先日、近くの公園の花壇で、人が通る道のギリギリのところに置かれた木の実を一心不乱に食べているリスがいました。すぐ近くを人が通っても食べることだけに専念していて、ピクリとも動きません。可愛いを通り越して怖い気がしました。リスを怖いと思ったのは、生まれて初めてです。きっとこのリスは、最近異常に晴天が続き気温も高かったので、冬支度を忘れてしまったのでしょう。夏休みの宿題を忘れた子供のように、今になって必死に食べ、体力を付けようとしていたのかも知れません。身体に悪いってば。

何か話題が脱線している気もしますが、とにかく「楽しく興味を持てる」ための授業をして、子供達に読む力、書く力、そして自分が感じたことを伝えるためのコミュニケーション力をつけさせることが、これからの日本には必要じゃないかって思います。だから、「教えることが楽しい」と思える先生じゃないとダメですよね。そういう先生って、小学校の頃に何人いただろうなぁ。そして、そういう先生が「恩師」って呼ばれるんですよね。