「自分を作る」子どもたちに心を開かせるには

また、普通の中学生が痛ましい事件を起こしました。どちらかと言うとまじめで成績も悪くなく、誰からも問題視されることはない「いい子ちゃん」です。バスジャックを起こした男の子と、一脈通じるものがありそうです。

先日書いた、バスジャックを起こした子についての記事で、普段の振る舞いは「自分を繕っていた姿」を見せていただけではないかと書いたのですが、この子の場合はどうだったんでしょうか。

叱られても反論せず、黙って頷くだけ。最初から反抗することに諦めを感じているような、「どうせやったって」という気持ちがどこかにあったのかも知れません。ただ、これも憶測でしかないですが。



人との関わりかたについて、昔とは違う環境に子どもたちが置かれていることは間違いありません。ネットだけでなく、携帯電話の登場は大きいでしょう。その中で、本当に信頼できる友達がうまくできない子もいるんではないでしょうか。

大勢の人に囲まれていて、当り障りなく振る舞っていたとしても、心を完全に開いていない子どもがたくさんいるんじゃないでしょうか。孤独というものが恐いから人込みの中に紛れてみるものの、結局は余計に孤独を確かめることになる。そうなると、自分でどうしていいのか分からなくなってしまうことがあるはずです。

そういう経験をしたことのない大人が、子どもたちの凶行にただ驚いているだけでは、何も解決しません。

今ここに書いてあることや、前の記事「真面目な中学生のバスジャックについてちょっと思う」で書いてあることに、同意を求めるつもりはありませんが、少なくとも教育関係者の方に理解はしてもらいたいです (実は教育機関などからのアクセスもそこそこあるので)。それを頭から否定するのであれば、やはり孤独な状況に置かれた子どもの気持ちは分からないのではないでしょうか。




大きな事件には、精神的な障害も含め、簡単に原因がつかめないいくつかの「きっかけ」があります。「なぜその事件を起こしたのか」を探ることも大事ですが、「何が子どもたちをそこまで追いやったのか」を考えることも必要じゃないでしょうか。今の学校の先生は、果たしてそこまで子どもたちの姿を見てあげているんでしょうか。

もっと、一人一人の子どもたちとゆっくり会話をする機会を、学校は持つべきじゃないでしょうか。本当に話を聞いてくれる人には、子どもは必ず心を開いてくれます。必要なことは、何十人かいるクラスの一人ではなく、一人の人間として話を聞いてあげる気持ちじゃないかと思います。

これまで何度か、自分の立場でしか物事を考えられない人が政治家や教育者になって、自分の場合と同じようにしか相手に接することができないと書いてきました*1。何か分からないことがある生徒に対して、同じ事を簡単に分かってしまった先生なら、その生徒の気持ちは分からないでしょう。分からない人の気持ちは、分からない人にしか分からないんです。何でもできる人や、力ずくで強引に欲しいものを得た人には、弱者や敗者の気持ちは理解できないんです。

学校の先生は、(大分のように不正合格した先生は論外ですが) 教員試験に合格して、学校での面接で好感を持たれた人が採用されますよね。同じ教員免許を持っていたとしても、学生時代成績のよかった「優秀な人材」がいれば、成績は悪かったのに努力して教員免許を取った「凡庸な人材」なんて採用されないんです。これは、実際に先生を選考する立場にあった人からも聞いた話です。だから、学校の先生はある意味、優秀な人材の集まりなんです。でも、それじゃ偏ってしまう。

いろいろな経験をした人を学校に呼んで、月に一度でもいいから、クラス単位で、子どもの目線で話をできる人に子供たちを預けてみるような取り組みはないのでしょうか。上から目線で教えるのではなく、同じ目線で問いかけ、子どもの心の叫びに気付き、応えてあげられる人。例えば町工場のおじさん、近所の子どもたちを分け隔てなく叱るおばさん、学校を中退して大検で大学に合格した頑張りやさん、板前を目指して修行している見習いさん。そういう人が、朴訥でも、何か大切な事を子どもたちに教えてあげられるような気がします。

学校の成績だけでなく、クラブ活動で活躍することだけでなく、いろんな事に触れる機会を与えてあげないと、いつまでも同じことが繰り返されるんじゃないでしょうか。人との付き合い方が分からずに迷っている大人が増えているのは、それを学校で知る機会が与えられなかったからかも知れません。



敗者だった者のこんな考え方は、間違っているんでしょうか。

*1:例えば「全国学力調査の意味は?」の記事など