真面目な中学生のバスジャックについてちょっと思う

14歳の中学生がバスジャックをするという事件。マンガにさえ出てこないような無謀な犯行は、学級委員も務める真面目な生徒が起こしたという、一見理解に苦しむものです。でも、真面目な生徒の、いつも見せているその振る舞いや言葉が、必ずしも本当の姿とは限らないと思います。真面目な姿は、一種「作られた姿」だったのかも知れません。

(注:かなり憶測で書いてます。単に思ったことを書いてるだけですので、そういう視点で読んで頂けたらと思います。)



学級委員、昔やりましたよ。生徒会でも立候補こそしなかったものの (事情があった途中で取り止めたんですが) 活動には加わったし、学校行事などでは先生からも期待されました。ガリ勉と言われるくらいに勉強もしたし (その割には大した成績じゃなかったですが orz)、ちょっと不良っぽい生徒からは一番嫌がられるタイプでした。

大人から見れば、かなり真面目で、何の心配もない生徒。期待して褒めてあげれば、どんどんその期待に応えてくれる。同級生の面倒見もいい、いわゆる「優等生=いい子ちゃん」だったと思います。

でもそれは、あくまで自分を繕っていた姿でした。中学生や高校生にして、すでに世の中を覚めた目でいました。本当はもっと子どもらしく感情的になったり、馬鹿をしたり、はしゃいで過ごしたかった。でもそれが、決して自分の将来にはプラスにならなことを理解していたし、面倒を起こして大人から罵声を浴びたり、つまはじきにされ、見下されるのが嫌だった。それは理性ではなくて、単に覚めていただけのことです。

たぶん今回バスジャックを起こした中学生も、こんな感情を持っていたんじゃないかなと思ったりします。どこにも問題を起こすような兆候はなく、特に不満を感じている様子もなかった。ただ、それは、自分の中にある感情や爆発させたい不満を見せなかっただけなのかも知れない。本当の姿を、隠していただけかも知れない。昔の自分を振り返ると、この子の気持ちが分かるような気がします。

本当は臆病で、自分の言いたいことを言う勇気もなく、模範的な振る舞いに徹し、大人に歯向かう度胸もなかった。不良と呼ばれていた生徒達が、ある意味うらやましかった。将来を冷静に考えていないだけかも知れないけれど、自由に自分を表現して、大人の視線を恐がることもない。真面目な生徒を演じる自分には、とうていできないこと。

でもやがて大人になり、そんな健気な気持ちも徐々に薄れて、毎日の生活の中で社会の色に染められていくんです。社会の枠の中からはみ出せば生きていくこともできなくなるかも知れない。どんなにあがいても、特別な才能に恵まれている訳ではない自分は、その枠の中でしか生きられない。そして、多くのことを諦め、与えられた道の中で頑張るしかないと、自分に言い聞かせるようになるんです。もう、不良たちを羨ましがることもなく。それが、正しい生き方であり、強い芯を持った、夢に向かって頑張る人のように。

それは悲しいかも知れないですが、間違った生き方でもないと思ってます。それが社会で生きていくための知恵であり、儒教で言うところの「道」に繋がるものかも知れません。人間社会にいる以上、その社会に適した言動で生き抜いていかなければならない。たぶん、そういうものなのでしょう。



「なんか分かったようなことを言っているけど、結局お前だって真面目に育てられて真面目に生きて、当り障りのないように普通に来たんじゃないか。この子がバスジャックという凶行に走った気持ちなんて分かってないだろう」

そんな声が聞こえてきそうですね。確かに、この子のような犯行をした事はないし、頭に来た時に、例えば学校の窓ガラスを割ってやろうとか考えたことはあっても、あくまで一時的に思うだけで実際にやろうとまでは思いませんでした。だからこの子が犯行に行き着いた気持ちを完全に理解することはできないかも知れません。でも、親の期待や、自分に向けられた当たり前の振る舞いをするだろうという周囲からの目に対して、反抗したことはあります。



大学受験で浪人中、当時の共通一次試験 (← 年代がばれるよ) を受けた後、二次試験も、私立の受験も全部止めました。大学に入ることが当たり前のように期待され、進みたい道よりも皆と同じ進学が求められていた最中での出来事です。親からは猛反対をくらいましたが、頑として譲りませんでした。結局、大学に進学することなく、反対した親元に居られる訳もないためアパートで一人暮らしを始め、近くのパチンコ屋や喫茶店でアルバイトをすることになったんです。

こう書いてからよく考えてみると、まるで先日秋葉原で事件を起こした犯人と重なる部分があるように自分でも思えてきます。同級生からは、「お前なにやってんだ」と笑いものにされ、蔑まされ、劣等感に浸ったものです。ただ、秋葉原の事件やバスジャックの事件を起こした犯人と違ったのは、その反抗には目的があったことです。英語の成績が学年でも最下層だったのにも関わらず、アメリカに留学したいと思っていたからです*1。しかし彼らは、反抗そのもので何かを得ようとした。何かのための反抗ではなく、反抗していることを示したかっただけだと思います。



ただ、当時の自分が自暴自棄になって犯罪に走らずに済んだのは、単に目的があったことだけが理由ではないと思います。それは、当時はインターネットがまだ普及していなかったことが大きな原因だったと思うんです。

ネットが普及した現在とは違い、当時はリアルな人付き合いや書籍からしか情報を得られません。自分の周りには、自分と同じ境遇の人や価値観を持つ人、自分のことを理解してくれる人はごく少数です。それぞれに、自分の価値観を持って、それが激しくぶつかり合いながらも、目を見て話すことができた時代です。

しかし今や、ネットに浸り、自分の好きな世界だけを放浪し、嫌な意見や忠告には耳を傾けることもなく、気に入らなければ相手を罵倒し、すぐに見切りをつける。目を見て話す現実の世界の付き合いとは別に、もう一つの仮想の世界の中で、それまで自分を抑えつけていた「いい子ちゃん」の着ぐるみを脱ぎ捨て、尖ったままの鋭い感情をぶつけて日頃の鬱憤を晴らす、または日常では不可能な欲望を実現するために、日々はまり込んでいく。そういうネットという仮想世界の中で、もう1つの自分が生まれてくるんです。

ネットの中では、大人が子どもを挑発し、子どもが大人に食ってかかる。また、大人も子どもも関係なく、自分の主張を強弁し、意義を唱える者にはすぐに腹を立てる。そこには憎しみや悔しさ、疎外感、喪失感などが鬱積し、感情が抑えられなくなると人が変わったように暴言を書き込み、そうした感情同士が激しくぶつかる中で、徐々に残酷さに何も感じない自我が芽生えてしまう。

しかしネットを離れるといつもの自分に戻り、変わらぬ毎日を過ごしていく。ところが、そうした本来の自分の姿を、やがて「これは俺の (私の) 仮の姿だ」と思い込むようになったり、そう願ったりして、ネットという仮想の世界に住む自我が自分の中で存在感を増してくる。

ネットの中では、何でも好きなように振る舞える。認めてくれる人がいなければ、違うところにいけばいい。そんなやつらは罵倒して見捨てればいい。そう。見捨てられるのではなく、こちらが見捨てるのだ。そんな一方的な考え方に支配され、日常のささいな事にも腹が立つようになる。そして、自分の思い通りにならないことや、親に注意されたことなどがきっかけで、ネットに住む自分が現実の自分を乗り越えて判断を狂わし、理性を破壊し、無謀な犯行へとかきたてる。

もしかしたら、こんな葛藤がこの子の中にはあったのかも知れません (← かなりの憶測です)。好きな女の子のことで揉めていたともニュースには書かれていますが、それも自分の思い通りにならないことが、どうしてネットの中のように簡単にはいかないのだろうかと苛立ちに変わり、いい子ちゃんを被った現実の中ではそうした感情をうまく表現することができないまま感情の逃げ場を見失って、反抗する意味で家出をした。そして、そんな状況に追い込んだ親や学校に憎しみを募らせ、バスジャックを思いついた。そんな風にも思います。



今回の事件では、自分を叱った親に対する嫌がらせが理由だと報道されています。世間を騒がせること自体ではなく、世間に騒がれて困る親、つまり自分を抑えつけていた者に対するあてつけが目当てです。それは、自分の思い通りにならなかった場合に、自分が何かをすることでその相手に大きな精神的打撃を与えてやろうという意識があるのでしょう。直接その相手を傷つけるのではなく、(もしかしたら、それができないために) 相手を傷つけるために大きな事件を起こし、周囲からの自分への同情を期待しているのかも知れません。それによって、どれだけ社会に大きな反響があるかなど考える余裕さえ持つこともできずに。

それは、少し前によく言われた、若者が「切れる」ことで無謀な凶行に走るのとも違う、現実の自分を見失ったことによる犯行。普段は本当の自分の感情を押さえ込んでいるために、ささいなことで自暴自棄になり、普段の大人しい様子からは予想もできない大胆な行動に走ることしか出来なくなってしまう。だとすればそれは、大人しくし、自分を抑えてただ何となく流れのままに生きている若者が発している、精一杯の SOS なんじゃないでしょうか。



子どもの心が読めない。一見、よく言う事を聞くし、利発そうでこれといった問題を起こしたこともない。しかし子どもたちにとっては、毎日のテレビやゲームの中で繰り返される暴力や理不尽な世界が身近に存在しているのです。そしてネットの掲示板などを通じて、今まで隠していた自分の中にあった、理性のない攻撃性を露にされたことで、そのバランスのとり方が分からなくなってしまう。残念なことは、そうした不安定な状態から逃げ出す道が、ネットの中ではなかなか見つからないことです。そして、それを教えてくれる大人もほとんどいないし、子どもたちはそういう大人を避けてさえいるんです。

果たしてネットにのめり込む体験を知らない今の大人たちが、子どもたちの SOS に気付いてあげられるのでしょうか。救ってあげることができるんでしょうか。ネットを規制することはもはや不可能です。ならば、ネットとの付き合い方を子どもたちに教えてあげることが、大事ではないでしょうか。しかし、ネットを問題視してばかりいたり、あんなことをするのは馬鹿で幼いだけだと切り捨てるだけの「社会の勝ち組」が考えたところで、解決はできないでしょう。理屈ではなく、不安定な心を開いてあげるための感情をぶつける位の準備が、大人にも求められます。

でも、不正合格した教員が教えているような今の学校では、それは望むべくもないことです。どこかで、何かが狂ってしまったんでしょうね。そのねじれのしわ寄せが子どもたちに行き着き、こうした事件に繋がっているのではないでしょうか。



(まあ、これはかなり推測の域を出ない話で、バスジャックをした子がネットをどれだけ使ったいたのか全然知らないで書いてますので、見当違いな可能性もあります。ある意味、そうであってくれたらとも思いますが。)

*1:恐ろしいことに、自分の好きなことのためには、人間信じられない努力と成果を積み重ねることができるものです。数年後、アメリカに留学し、今ではカナダで英語を使って仕事をしている訳ですから。つまり、翻訳者になるなら学校の英語の成績なんて関係ないってことですね。